あそちゃんの白血病闘病記

2019年9月30日に発覚した、慢性リンパ性白血病の闘病記です。

慢性リンパ性白血病闘病記65(白血球増加)

久々の更新です。3ヶ月ぶりになりますでしょうか。

昨日は診察日でした。

結果は白血球が急に増加しました。前回より3割増しくらいで46,000。

腕のグリグリとしたしこりも少し大きくなっていました。

前回のPET検査では、脾臓の腫れなども変化はなくて、ちょっと安心していたんですけどね。

担当医のT先生からは、このペースで白血球が増え続けていくのなら、いずれは治療になるかもしれませんと説明を受けました。

ただ私の場合、貧血などの症状はなく、血液の他の値は正常値なのです。それを担当医の先生は、まだ他の値は悪くないからまだまだでしょうけどね・・・とは言っていました。

治療に入るとしたら、生活にもいろいろ制限が出てくるのでしょうかね。それに体力も落ちたり、免疫力も下がるのでしょうか。

やっぱりまだ治療開始はいやですねえ。

治療といっても多分、分子標的薬を飲み続けるということになるんでしょうし、入院はしなくても良いんでしょうけどね・・・。

今までのように自転車乗ったり、山登ったり、旅行に行ったり出来るのかなあ。

次回白血球の値が下がって欲しいものです。それは無理かしら。

慢性リンパ性白血病闘病記64(PET検査結果)

さて本日は診察日でした。

10月に撮影したPETの検査結果を聞きに行きました。

もちろん採血して、現在の状態も観てもらったわけですが、その結果は活動性に大きな変化はないから、このまま定期観察(Watch&Wait)ということになりました。

今までは2ヶ月ごとの診察でしたが、これからは3ヶ月ごとの診察で、何か身体に変化があれば連絡して来院するようにとのことでした。

それでも肘のグリグリの正体は不明なままです。少し大きくなっているのですが悪性のものではなさそうだということなので、今後どうなっていくか次第。

白血球は今回37,000台で前回より少し下がりました。それでも正常値は8,000以下だから私の身体の中にいかに白血球さんがいっぱいあるかというのを考えるとすごいもんですね。私の血液の中には健康体の人の5倍くらいの白血球があるということになります。私は年齢的にもう献血は出来ませんが、白血病の人間の血液は輸血にも使えないし、臓器移植はもちろん不可。死んでも人様の役にも立てない、オンボロな身体であります。

コレステロールはあまり下がらないので食生活に配慮ということなんでしょうが、今日も昼飯にロースカツ食べて、夕食にカレーライス食べたから、ちょいといけませんな。

でも油物って美味しいのよね。

このまま、ほどほどの状態でずっと続いていけたら良いなと思ったのでした。

さて次回の診察は3月です。

今年もいろいろあって、本当に死にかけたけど、無事に年を越せそうです。

ちょっと早いけど、皆さま良いお年をお迎えくださいね。

 

以下はPET検査の結果です。もうドーンと公開しちゃうよ(笑)

【所見】 前回CT検査 (2023/03/23) を参照しました. 左肘部内側の腫大リンパ節は短径15mm程と2023年3月 (短径11mm程) より増大していますが、有意な FDG集積亢進はありません. 両側耳前部や耳下腺内, 顎下などの両側頚部の軽度腫大リンパ節に大差なく、縦隔や両側腋窩に散見す る軽度腫大リンパ節に変化はありません. いずれのリンパ節にも有意なFDG集積亢進はなく、活動性に乏 しいものと思われます. 撮像内に明らかなFDG異常集積は指摘できません。 両肺に明らかな腫瘤性病変は指摘できません. 軽度の肝脾腫がありますが、 前回と大差ありません. 副脾に変化ありません. 肝S2領域の脂肪濃度を含んだ結節, 腎結石, 両腎嚢胞に大差ありません. 前立腺肥大・上行結腸憩室に変化はありません. 胸水・腹水は認めません. 左膝窩部にはベイカー嚢胞が示唆されます .

【診断】 多発リンパ節腫大 左肘部内側のものは増大, その他のものに大差なし, 有意なFDG集積亢進なし 撮像内に明らかなFDG異常集積は指摘できない.

 

 

闘病記じゃなくて旅行記(ネパール派遣隊)

さて、白血病の闘病記のブログなのですが、3年9ヶ月ぶりにネパールに行って来ましたので、その旅行記を書かせていただきます。

 

3年9ヶ月ぶりに「ネパール歯科保健医療協力会」の37次隊ミッション隊員としてネパールに行ってきました。21回目(多分)の訪問となりました。

今回は12月に派遣される38次隊の先遣隊として、久々に会うネパールの人たちとの親睦、コロナ後の現地の状況、現地スタッフの活動状況の把握などを目的として行ってきました。

活動期間はわずか4日間でしたが、その間に現地に滞在して感じたことなどを少しお伝えしたいと思います。4日間で何を感じたかを一言でいえば、変化していくネパールの姿でした。

まずはカトマンズのトリブヴァン空港に着いて思ったのが空港が明るい、そして綺麗。空港の駐車場も整備されていて、大きなビルが建っていました。定宿に向かう道も綺麗、走っている車も以前のようにボロボロの車ではなく比較的新しい車が多くてびっくりでした。

定宿のサンセットビューホテルに到着して、夕食は、蕎麦定食を食べました。変わらぬ美味しさでした。ホテルに併設されている蕎麦レストランの蕎麦は、ネパール西部のカリガンダキ地方で作られる蕎麦を日本で修行したネパール人スタッフが手打ちで作っています。日本で店を出しても決して引けを取らない美味しい蕎麦で、4日間の滞在中も日本からの団体ツアー客などが頻繁に利用していました。ホテルも今年の4月から再開されたとのことで、まだお客さんもあまり戻っていませんでした。しかし部屋はリニューアルされて綺麗で快適になっていました。

 

2日目は蕎麦レストランのテラス席で朝食。


その後現地スタッフたちとミーティング。打ち合わせ後は、いろいろと世間話に花を咲かせました。昼食はカツ丼を食べました。こちらも日本でも充分勝負出来る美味しさです。

夕方からはお土産を物色にカトマンズの繁華街のタメルへ。タメルはいつものにぎやかな雰囲気でしたが、道路際にゴミがほとんど落ちていないのにびっくり。街灯や店内の明かりも増えて、街が明るくなっていました。

夕食は現地の歯科医師のA先生推薦のタメル近くのチベット料理の店でギャコック鍋(チベットの鍋料理)とモモ(チベット餃子)を食べました。美味くて最高!食べ過ぎました。最後にはバター茶も出ました。バター茶は初めて飲みましたが、塩辛いミルクティーかバタースープといった味でしょうか。

 

3日目の午前中は私はフッ化物洗口の実施状況のチェックのため4校の学校訪問へ。ある学校では卒業生の送別会が盛大に開かれていて、子どもたちがフッ化物洗口の後でネパーリーダンスを披露してくれました。民族衣装を着て一生懸命に上手に踊る子どもたちの姿はとても可愛らしくて、心が癒やされました。

昼食は新しくカトマンズ市内の真ん中に出来たマリエットホテルへ。豪華すぎるホテルです。ロビーもレストランも出来たばかりでピカピカ、屋上にはプールまであるようです。こんな豪華なホテルは、なんだか落ち着かずソワソワです。みんなでヤギのカレーを食べましたが、これが絶品。今まで食べたカレーの中でベストワンです。ついでにケーキもたくさん頼んでみたのですが・・・はい、こちらは私の自宅でやっているカフェ「カフェチャイカ」に軍配が上がりました。

午後からは歯科大学と歯科大学病院を訪問。ネパールも新しい技術がいろいろと導入されていて日本で治療するのと変わらないレベルの治療が受けられるようになっているのを感じました。

夕食はカトマンズの街中の日本料理の店「居酒屋北海道」で活動拠点のゴダワリ市長ご夫妻と現地スタッフの代表をご招待して会食。日本料理をネパール人の皆さんは喜んでくれていたようですが、我々日本人はやっぱり日本の居酒屋が一番!でもネパールで本格的なラーメンや寿司、焼き鳥などが普通に食べられるんですね。びっくりでした。

 

4日目はいよいよ帰国日です。朝食前にホテルから歩いて30分くらいのところにある古都パタンへ散歩に出かけました。道沿いにビルや商店が増えてにぎやかです。


ホテルに戻って、朝食を食べ出発。

午前中は歯科衛生士学校と附属病院を見学。こちらも最先端の技術が導入されていました。CTもあり、インプラントはもちろんデジタル印象もアライナー矯正もやっていました。

午後からはネパールで一番有名な歯科医院を見学する予定でしたが、まだ時間があるということで街中を散策。古い商店が並ぶ中におしゃれなカフェが出来ていて、そこでティータイム。

予約時間に近くなったのですが、車2台に分乗して行動していたので私のグループは先導車とはぐれてしまって、前日昼食を食べたマリエットホテルで車から下ろされてしまいました。ここで待つようにと運転手から言われてしばらく待っていたのですが、状況不明なため仕方なくタクシーでホテルに戻りました。

ホテルに戻って、昼食に天ぷら蕎麦を食べて、時間があったのでホテル近くの街中へ出かけました。街の歯医者さんが出来ていたので見学させてもらいました。



ホテルに戻って荷造りなどしていると、先導車部隊が戻ってきました。私達だけ先に待っていて、後で合流して一緒にまたカレーをマリエットホテルで食べるつもりだったとのことですが、うまく連絡がつかなかったようでした。

午後4時半にホテルを出発して空港へ向かいました。渋滞しているかもしれないので早めに出ましたが、空港でたっぷりと時間があって、ちょっとした荷物のトラブルもあったのですが時間はかかりましたが余裕で解決。無事に出発して定刻通りに帰国出来ました。

 

変化しつつあるネパール。写真でお伝え出来たでしょうか?なんだか食のレポートみたいになってしまいました。お許しあれ。

 

ネパールの歯科事情(聞き書きですので、少し間違いもあるかもしれません)

 

歯科大学について

現在ネパールには15校の歯科大学があり、そのうち国立大は2校。受験した上位者100名が国立大に入学出来て学費は免除。その他の合格者は私立大へ進学する。各大学の1学年の定員は約50名。5年間学んだ後で1年間の病院実習。その後国家試験があり毎年500名くらいが受験。合格率は約50%。ただし年3回国家試験があり何度でも試験を受けることは出来る。私立の学費は6年間で300万ルピー。講義はすべて英語で行われる。

 

歯科衛生士学校について

現在歯科衛生士学校はカトマンズに4校、その他の地域に5校。3年間のカリキュラムで1学年定員は約40名。卒業後は国家試験があり、ほぼ90%くらいの合格率である。ただし現状では就職状況があまり良くないので、卒業して医学部へ進む学生や、海外へ出て働く卒業生も多い。学費は3年間で45万ルピー。

ちなみにネパールの公務員の平均給与は月15,000ルピー程度。9月末のレートは1ルピーは1.12円。

 

年々歯科医師も増えている状況で、ネパール歯科保健医療協力会の活動も治療から保健医療や予防教育へシフトしてきました。今後は現地で歯科治療を行う機会はなくなっても保健医療と予防教育の充実は必要でしょう。

現地の学校でフッ化物洗口はこれまで60校くらい行っていたのですが、コロナ以後は15校くらいに減ってしまいました。元の状況に戻れるようにサポートを続けていく必要を感じました。

慢性リンパ性白血病闘病記62(いろいろと・・)

久々の更新です。

本日は2ヶ月に1度の診察日でした。白血球はジワジワと増えています。

41,000くらいになりました。そして診断されてから4年目を過ぎました。

血液の他の値はコレステロールがまだちょいと高い(食べてるものがねえ・・)。

いずれにしろ、元気ですのでまたまた経過観察ということになりました。

実は9月の末に5日間でしたが、ネパールに行って来ました。ずっと参加している

ネパール歯科保健医療協力会の先遣隊として行って来たのですが、まあその話はまたの機会ということで。

9月30日につばさの会のセミナーが開催されました。4年前の9月30日にはCLLと診断された日なので、ちょうど4年目に開催されたセミナーということになりました。

私も体験発表をさせていただいたのですが、ずっとWatch&Wait(経過観察)で4年過ごして来た訳で大した話も出来ませんでしたが、他の方々は私以上に大変な闘病生活を送って来られた方々で、なんだか自分がこんな場所で話してもいいのかな、なんてそんな気持ちにもなりました。

セミナーの後は会場近くの居酒屋で懇親会が開かれました。

楽しく話しているうちにいつの間にか4時間近く経っていて、10時過ぎての解散となりました。

みなさん頑張って病気と向き合っていました。いろいろと勉強になりました。

 

慢性リンパ性白血病闘病記60(アナフィラキシーショック)

実は、8月15日の昼前に自宅の敷地内でスズメバチに後頭部を刺されてアナフィラキシーショックをおこし、救急車で運ばれて救命処置を受けるという大変貴重な体験をしました。本当にこの世とお別れするところでした。

以下はそんな体験記です。ちょっと長いのですが、お読みいただければ幸いです。
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ハチのムサシは死んだけど、ハチでヒロシは死にかけた!

写真はありません。リアルなアナフィラキシーショック体験記。お暇ならお読み下さい。

その昔「ハチのムサシは死んだのさ」(下記注釈1)という曲がありましたが、「ハチでヒロシは死にかけた」のです。
それは8月15日、お盆の最後の日。もしかしたらご先祖様がお迎えに来られて呼び寄せようとしたのかもしれません。昼前に診療室の窓の汚れが気になっていたので、掃除をしようと脚立に乗って窓を拭きかけたその時、首の後ろにズズーンとなんとも言えぬ痛みが走りました。
(あ、これはハチに刺されたな、何度目だろう、これはいかん医者へ行こう)
急いで車に乗って近所の内科へ行くと、今日はまだお盆なのでお休みです。仕方がないのでUターンして車で戻る途中から気分が悪くなって、意識がもうろうとしてきました。車のエアコンは入っているのに汗がボタボタと落ちます。間違いなくこれはアナフィラキシーショックです。家にいったいどうやって戻ったのか、もうろうとしていたのによくまあ車の運転をして自宅まで帰ってこられたものです。
家に帰り着くとどうしようもない気分の悪さで床に倒れ込みました。視界がぼんやりしてきます。でも妻が家にいたので本当に良かったです。
「母ちゃん、どうしよう。これはいかん、最悪や。どこか病院連れてって」
「困った、どうしよう。そうだ救急車呼ぶわ!」
息苦しいような意識が遠のいていくような例えようもない気分の悪さが襲ってきます。
「父ちゃん、しっかりしてね。すぐに救急車来るよ。頑張って!」
どれくらい時間が経ったのでしょうか。救急車の音がしてだんだんと近づいてきて、気がつくと横に救急隊員の方が座っています。
「もしもし、わかりますか?」
「はい、わかります」
すぐにガバッと口元に酸素マスクが取り付けられました。
「これはいかんな、急いでドクターヘリ呼んで!」
「はい!」
(えっ、ドクターヘリ、オイラそんなに状態悪いの。意識はあるよ)
「今日は、悪天候なのでヘリは飛ばせないそうです」
「うーん、じゃあ高塚インターまでドクターに来てもらって処置してもらいながら済生会病院(日田)まで行こう」
「はい、連絡します」
高塚インターは私の住んでいる九重町と日田市の真ん中あたりに位置するインターです。
「麻生さん、今から病院行きますからね」
担架に乗せられて、車内に運び込まれて救急車が走り出しました。
私が寝ていた床の上は汗でびしょ濡れになっていて水たまり状態になっていたそうです。
そして記憶にありませんが、救急車に乗せられるまでに2回ほど吐いたそうです。
「これは点滴した方がいいな。ドクターに連絡して点滴の許可取ってくれ」
「はい。もしもし・・・」
救急隊員というのは大したものですね。動く車の中で静脈を確保して点滴開始です。
車は高塚インターに向けて高速を走っているようですが、ぼんやりしていて良く覚えていません。
吐き気がしてきました。
「すみません。吐きそうです」
「えっ、吐く?じゃあこれに吐いて」
膿盆に大量に吐いてしまいました。高塚インターに着くまでに何度か吐いて、せっかく食べた朝食が全部出てしまいました。もったいない。もう吐くものはありません。
目をつぶって寝ようとすると、救急隊員の方が声をかけてきます。
「お父さん、目を開けといてね。つぶったら気を失ったかと思うからね」
(お父さん?私は、あなたのお父さんじゃないよ)
そんなこと思う余裕はあったのですね。しかし本当に大変な状況だったのでしょう。
救急車に同乗していた妻は、
「ああ、これで父ちゃんとはお別れなのかな。人生ってあっけないもんだな」
と本気で考えていたそうです。
高塚インターに着いたようです。いつの間にか、横に医者がいました。
「麻生さん。済生会病院救急科のUです。今から処置しますからね」
ズボンを脱がされて、太ももに注射をされました。
「アドレナリンですか?」
「そうです、よくご存知ですね。会話は出来ますね。すぐ病院に着きますよ」
救急車の音、医者と救急隊員の会話、点滴の追加、聴診器が当てられたり、いろいろとうろ覚えですが、周りの音は聞こえていましたし、ずっと話しかけられて何か返事をしていたのも覚えています。
会話をするというのは患者の意識を保つための方法でもあるようです。
おかげで意識を失うことはなく、済生会病院に到着して救急車から担架が下ろされて、救急外来の処置室へ運ばれたのもはっきりと覚えています。
担架から抱え上げられて処置用のベッドに移されました。身体中に何本も管が繋がれて処置が始まりました。
パンツをガバッと脱がされました。
「あっ、パンツ脱ぐんですか?粗品を見られちゃうね」
「大丈夫、大丈夫。仕事柄いろんなもの見慣れてるから恥ずかしがらなくていいですよ」
気が遠のきながらも看護師さんとバカな会話もしていました。ホントにバカです。
モニターが見えます。血圧が少しづつ下がっているのがわかりました。最高血圧は60を切っています。
一般的に最高血圧が60以下になると危篤状態なのだそうです。そんな状態になっていたのです。
「血圧があがらないね、もう1本打とうか。脈が弱いな。◯◯入れて。アドレナリンも追加ね。そっちは◯◯確保して。そうそう」
そんな声が聞こえてきて、このまま気を失ったら、この世とお別れかな。でもそれなら苦しくなくていいかな。いやいや、まだ死にたくないから先生助けて下さいよ。などとぼんやりと考えていました。
「よし上がってきたね。大丈夫。良かった。麻生さん大丈夫だからね。でも今日は入院して経過観察です。今から、この病院で一番いい部屋に行きますよ」
ベッドに乗せられて連れていかれたのは、HCU(高度治療室)でした。なるほど一番いい部屋です。
身体はガタガタと震えが止まりません。汗びっしょりです。
横には看護師さんが2人立っています。U先生からいろいろと指示を受けています。
胸には心電図用のパッチが貼られ、そこからコードが3本。左腕には血圧計、左指先にはパルスオキシメーター、そして静脈確保の点滴の針。右腕には点滴のチューブ。その先には何本かの点滴液が吊るされています。そして鼻には酸素用のチューブ。身体中チューブまみれです。
ベッドに寝たまま体重を測られて、処置を受けて少し落ち着いたのか意識もはっきりとしてきました。
看護師さんがやさしく話しかけてくれます。
「麻生さん、わかりますか?大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「良かったですね。本当に危ないところでした。ゆっくり寝ていていいですよ」
「汗びっしょりでシャツが濡れていますから、着替えましょうね。そうか着替えはないですよね。じゃあ病衣を着てもらって、パンツはないからオムツですね」
えっ、オムツなの。履いてみるとこれが意外と履き心地が良いのです。なんか楽だわ~。
「オムツ履くってことは、おしっこもこの中にするんですか?」
「はははは!いやいやいや、自分で動けるから尿瓶にしてくださいね。はいこれ」
ベッド脇に尿瓶がおかれました。
しばらくして処置をしてくれたU先生がやってこられました。
「麻生さん、もう大丈夫ですよ。ただアナフィラキシーショックは、引き続き起こす人もいますから、今日はここに泊まってもらって様子をみます。何事もなければ1,2泊で帰れると思います」
「ありがとうございます。先生は命の恩人です」
「いやあ。これくらい、いつものことです。ではゆっくりされてください」
それから、問診を受けたり、誓約書にサインをしたりして、その後は退屈な時間が過ぎていくことになりました。部屋にはスマホも、テレビも、本も、そして時計もありません。両手もチューブに繋がれているので、ひたすら目をつぶって横になっているしかありません。長い長い修行のような時間が過ぎていきました。
左側に見えるのは管理用のモニターだけ。心拍数、血圧、血中酸素濃度、心電図の波形が映し出されています。5分おきに血圧が自動で測定されてモニターに映し出されます。血圧は下がってはいないようで安定しています。ただ横になってモニターを見ているだけですが、いつの間にか外が暗くなっていました。
時々、看護師さんがやってきて点滴の入れ替えやモニターのチェックをしては部屋を出ていきます。
そうそう点滴をしていると、やたらと尿意を覚えておしっこをしたくなるのです。横には尿瓶が用意されています。さておしっこをしようとすると、これが大変。起き上がって腰を浮かして病衣とオムツをおろして尿瓶をナニにあてますが、こんなこと日頃しなれていないので、身体の方に出すぞ出すぞと意識を集中しないと出てくれません。それも腕のチューブが抜けないように注意しながら、じわじわとやらねばなりません。立っておしっこを出来るというのは本当に快適なものであるのを実感しました。
そろそろ夕食の時間なのか腹が減ってきました。看護師さんが部屋に入ってきたので質問します。
「あの、今日は夕食はないんですか?」
「そうですね。今日は救命処置を受けた後ですから、朝まで絶食ですね」
ガーン!淋しい夜となりました。それにいつの間にかもう夜の8時を過ぎていたのでした。
そして9時の消灯時間となり、血圧測定も1時間おきということになり、部屋のカーテンが閉められました。
寝ようと思っても寝られません。うとうとして寝られるかなと思うと1時間おきにブーンと音がして腕の血圧測定が始まる。外からは20分おきくらいに救急車がやってくる音が聞こえてくる。明け方までずっとそんな感じでほとんど寝られずに朝を迎えました。
起床時間になり、看護師さんがやってきました。
「麻生さん、気分はどうですか?」
「あまり寝てませんが、もう普通に大丈夫そうな気がします」
腹がペコペコです。
「あの、朝食はないんですかね?」
「どうなんでしょうね。先生に聞いてみますね」
それから待てど暮らせど食事はやってきませんでした。ガッカリ。
そして採血をされ、移動式のレントゲンの機械が運び込まれて胸部レントゲン撮影をされました。
担当医のU先生がやってこられました。
「麻生さん、気分はどうですか?」
「はいもう大丈夫そうな気がします」
「どうされます。もう帰られますか?」
「はい、帰りたいですね」
「わかりました。じゃあ午前中に退院出来るようにしましょう」
そしてしばらくすると身体中のチューブがはずされました。
待っているとお母ちゃんがやってきました。面会のための手続きをきちんとして病室に入ってきたそうです。
着替えを済ませて、スタッフの方々と担当医に挨拶して1泊で無事退院となりました。

貴重な体験でした。本当にこの世とお別れの寸前まで行ったのでした。気は失わず、お花畑をみることはなく、今こうして文章を書いているというのが本当に幸運だったとしみじみと思えます。
皆様ハチにはくれぐれもご注意ください。
ただ一つ心残りなこと。どうせならドクターヘリで運んでもらいたかったなあ!

                                 完

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ということで月末予定のPET検査は延期となりました。

注釈1
「ハチのムサシは死んだのさ」は1972年2月15日に発売された、平田隆夫とセルスターズの楽曲。この曲で紅白歌合戦に初出場を果たした。

CLL(慢性リンパ性白血病)闘病記59(PET検査)

昨日は2ヶ月に一度の診察日。午前中は仕事をして午後から医大へ出かけました。
白血球は32,000くらいで、このところ3万前後を推移しています。活動性が上がったということではないだろうということでした。

しかし左右の肘の関節付近に、ちょっと前からグリグリを触れるようになったのです。

これはリンパの腫れだと自分は思っていたのですが、主治医には何だかわからない。

なんじゃそれ~!!!

1個だけだったのが、もう1個増えてグリグリを触れるようになったので、これが何かわからないままにはしておけないから検査しようということになりました。

悪性なのか?活動性が高いのか?

じゃあPET検査しましょう。ということになりました。

ganjoho.jp

腕のグリグリを調べるのにPET検査?

いやいや実は私の身体のあちこちのリンパ節は腫れているのです。

今までは半年に一度CT検査をしていました。もっと詳しく調べるために次回は8月の末にPET検査をしましょうということになったのでした。

検査費用も高額ですが、やった方が良いのなら仕方ないです。

ということで、結果はまたブログに・・・・うーん。しゃあないですな。

CLL(慢性リンパ性白血病)闘病記58(北別府さん)

 しばらくぶりの更新です。体調に変化はなく普通に過ごしています。先月の診察でも白血球数の増加は認められず(反対に35,000だった白血球数は30,000台に下がっていました)、特に大きな変化はないのでこのまま定期観察で2ヶ月ごとの通院という今までどおりの状態です。普段は本当に病気のことを忘れていることもあります。私はそんな状況です。ありがたいことだと思っています。

 さて昨日のニュースで元プロ野球選手だった北別府さんの死去のニュースを知らされました。成人T細胞白血病で闘病されていたそうです。闘病する姿は痛々しく、この病気と戦う辛さが伝わってきました。一度発病すると治療していくのはかなり大変なようです。

 成人T細胞白血病は、ほとんどが母親がキャリアであった場合に母乳を介して感染するということです。女性は妊娠したら自分がキャリアでないかを血液検査で調べてもらう必要があります。もしもキャリアであった場合は残念ながら母乳での育児は諦めて人工乳で育てるか、母乳を与える場合は冷凍するなどして与える方法で対処するというのが選択肢になります。

 妊婦の方は、必ず血液検査でキャリアの有無を調べていただきたいものです。

www.pref.saga.lg.jp

 同じ白血病でも、私の場合は進行が非常にゆっくりです。治療が先か寿命が先かは今後の状況しだいです。

 頑張って闘病されてきた北別府さんのご冥福をお祈りします。